本化妙宗連盟の歴史
創立者・山川智應博士
本化妙宗連盟の歴史は、明治時代まで遡ります。
創立者は、戦前の宗教界において、日蓮教学の最高峰とも評された山川智應博士(1879~1956)でありました。
山川博士は、日蓮聖人御入滅後初めて本化宗学を組織的に大成した田中智學居士(1860~1939)の最高弟でありました。その田中智学居士の御入寂後、山川博士は昭和15年(1940)に「師子王学会」を、現在の連盟本部の地である鎌倉市稲村ガ崎に設立いたしました。
激動の時代を越え、戦後へ
その後第二次世界大戦を経、昭和20年(1945)の終戦とともに、「本化妙宗宗綱」及び「本化妙宗信条」という根本精神の元、敗戦により悉く荒んだ日本国と宗教界の再建を目指す同盟機関として、本化妙宗連盟を創立いたしました。
そして昭和21年(1946)、本化妙宗連盟は宗教法人として認可されました。現在の「本化妙宗連盟規則」は昭和29年(1947)4月2日付で文部大臣の認証を受けたものです。
昭和31年(1957)6月2日、連盟創立者である山川智応博士が77歳で御示寂されました。続いて山川博士の高弟であった高橋智遍先生(1909~1987)が継承いたしました。
高橋智遍の軌跡
昭和37年(1962)から43年(1968)にかけ、連盟組織の総てを挙げ、創価学会に対する厳正批判運動を展開いたしました。北は北海道の根室・札幌から、南は九州熊本・大分まで、東京日比谷公会堂・神田共立講堂・大阪中之島公会堂などの全国400ヶ所以上にて大批判公演会を開催いたしました。
昭和43年に国家諌暁運動の一環として「良識復活国民運動」を興し、広く日本全国にこの運動を展開させ、その活動終了の昭和49年までに、荒廃した日本の思想界・宗教界に多大な影響を及ぼしました。
昭和47年(1972)には新潟県佐渡島の聖蹟「真浦の地」に、本化妙宗連盟が主体となり、日蓮聖人門下の各宗派が異体同心となり、真浦の流罪赦免御帰還聖蹟を再建立させることを成し遂げました。
昭和60年(1985)には、釈尊御涅槃の聖地であるインドのクシナガラに、日蓮聖人御真筆の題目宝塔を建立し、「諌暁八幡抄」に予言された「日は東より出ず、日本の佛法の月氏へ還るべき瑞相なり」の第一歩を標しました。
昭和63年(1988)6月4日、高橋智遍先生は79歳で御帰寂されました。そして高橋智遍先生の高弟である櫻井智堅、高橋智經の両名がその後を継承。
そして現代へ
平成12年(2000)には、永く法華経界より切望されていた、日蓮聖人の御遺文を一体にまとめ編纂した形態の書籍として、「類纂日蓮聖人遺文集・平成版」を出版。日蓮聖人門下に限らず、日本の宗教界内で偉業として絶賛される。
平成15年(2003)8月20日、桜井智堅先生は71歳で御帰寂。